第二編 修験者の視点で自分探し

戦いと調和のパワースポット

~修験者の祖 役行者から始まった歴史・野望の行き末
大天狗・烏天狗・巫女像に迎えられて~

 金剛院(浦島)コースが、現在廃道になっているため、金剛院とその近くにある不動の滝中心にパワースポットを探すことになった。
金剛院は室町時代に建立され、延々と引き継がれて現宮司の薄平家は、30代目を数える。その長い歴史の中で本人の意識外でのDNAが脈々と波打ち、宮司さんに神秘体験(大日如来の輝く光や天狗出現や白いヤマイヌの幻)を起こさせ、その話の中からパワースポットに導かれた。
そして修験は、自分との戦いをとおして調和へと変貌するが、金剛院の境内ではタラの木とはえ取り草がそれを表現し、神棚では祈りと薙刀で表現され、そして最後には不動の滝という禊の場でたまゆら(玉響)が出現し、それ以下でもそれ以上でもない完璧と言える調和が、パワースポットとして示された。

■金剛院がパワースポット?

 5月末の金剛院の境内には戦いと調和が、見事に再現されていた。
霊山両神山の麓に金剛院があり、両神御嶽神社とも言う。明治時代の神仏分離令により修験道が禁止され、金剛院も廃寺となり両神御嶽神社として復飾した。現在は現地でも地図上でも金剛院と呼ばれ、今日に至っている。
この金剛院は里宮であり、両神御嶽神社本社は山頂付近の三角点近くの位置にあり、伊弉諾尊と伊邪那美尊と木曽御岳山から勧請された国常立命が祀られている。そしてその前には、大きな1対の山犬が守っている。

両神御嶽神社本社

金剛院は西武秩父駅発の日向大谷行きの町内バスに乗り、途中乗り換えて、1時間程で浦島口に着く。
左に伸びる林道を進んで行くと左手に沢があり、右手は山の始まりのようになっており、その上には諏訪神社の赤い鳥居がある。そこから修験者たちが歩いた道(1866年・慶応2年に24代宮司寿光が浦島登山道として開いた)があるが、今では獣みちとなってしまい、人は歩くことができない。
つづら折りの狭い林道を進んで行くと民家がポツリポツリとあり、以前は30軒あったのが現在は9軒に減っている。坂道を登って行く途中の左側には、イチゴ農家やキュウリ農家の立派なビニールハウスが見えてくる。
当日は梅雨の合間の真夏日で、直射日光がもろに襲いかかり汗がしたたる中、それでも山の空気はすっきりし、涼やかな鳥の声や民家の庭先の花に慰めながら、小一時間(通常は40分程)で浦島地区を見下ろす高台に到着した。
金剛院を囲むように民家が3軒あるが、ここでも2軒は空き家となっていた。空き家の前の道を行くと、左手に急な登り坂がある。見上げるようにしながら参道を上ると約8メートル先には鳥居があり、長い風雨にさらされながらも立っていた。年代を感じながら、境内に入った。

一般的に神社や寺の境内は掃き清められているか、樹木の手入れが行き届き整然としているものだ。だが、ここの境内は不思議な光景を表していた。
鳥居を一歩入ると、いきなりタラの芽が目の前に出現した。タラの芽がつんと天を仰ぎ、その横にはとげを隠した野生の大小のタラの木の群生があった。
その足元にはピンクの野生の「虫取りなでしこ」が、負けじと色と数で競い合っていた。ピンクのその花は、愛情やおもいやりなどの優しさを示す色でありながら、「ハエとりそう」という別名もあり、ハエをとる草として昔から使用され、人間にとっては忌み嫌う虫であっても命を奪うものだ。
突然、山奥に迷い込んだような世界だったが、れっきとした神社(寺)の境内だった。タラの木は3年で枯れるというが、この境内のタラの木は6年目を迎え、まだまだはつらつとし、次々と若木を育てていた。
境内には、樹齢700年の梅の木もあった。老麗さが幹に現れ、室町時代建立である金剛院の風格を増させていた。老梅の反対側には、棕櫚皮を丸く固めたものにシノブ(シダ)を這わせ、紐で吊るした幾つものつりしのぶが、涼しさを誘っていた。
季節外れの元気なタラの芽と老梅から流れ出る『偶然ではない必然の中で、多くのものが動いている』不思議感覚・存在感のあるパワーを感じながら、金剛院の横につながっている宮司宅に入った。

 

タラの芽に覆われた金剛院の社前

■修験の足跡からパワースポット探し

玄関の右側に入ると、組子細工の襖がある部屋だった。組子とは釘を使わずに木を組み付ける技術で、1ミクロンの狂いも許されない繊細な世界で、木のレースとも言われ、職人の努力と忍耐の上で作りだされる。そこにも、修験という厳しさの象徴を形で表しているようで職人のパワーを感じた。

修験とは、山へ籠もり修行をしながら悟りを得るという日本古来の山岳信仰に、仏教が取り入れられた日本独特の宗教で、おこりは奈良時代の仏教伝来からだ。本山修験は役行者(634~701年)が開祖で、17歳のときに元興寺で孔雀明王の呪法を学び、吉野の金峰山において金剛蔵王大権現を感得し、両神山の清滝小屋近くの神変窟(じんべんいわや)でも修行した。現在では、修験道でもある吉野山から熊野三山などを含む霊場・参詣道が、2004年に世界遺産に登録されている。
また修験道は、空海の密教宗派の真言系当山派と園城寺の僧・増誉から発達した天台系本山派と、各地の山岳にある諸山派の三派があり、両神山では、日向大谷の観蔵院(当山派)と浦島の金剛院(本山派)が代表となっている。
中世期に修験道は最も栄え、両神山の修験道の萌芽は鎌倉時代初期だった。江戸中期以降、幕府は全国の山伏を当山派と本山派のいずれかに所属させ、巡教を禁止し、地域に定住させ、そして修験者には「祈祷」のみの専念を命じたため山岳修行が怠慢となり、苦行性が薄れ、やがて修験道も堕落した。修験者の階級・役職も毎年の春秋2回の入峯の回数で決定されていたが、金品で済まされる場合もあった。
その過程で組織化が進み、講中が発展するようになると講により石碑や石像が多く奉納された。日向大谷コースでは、奉納された丁目石が1丁目から36丁目迄あり、36人の童子に導かれて登山ができ、修験の山から大衆の山へと変わって行くと、古来から女人禁制だった両神山も、大正3年に両神山の最後の修験者である小関益夫の、小関講の分派の渡辺ひさが率いる講の女性信仰者数人が入山することで、女性も登山するようになった。

講中登山

昭和30年代(りょうかみ双書3「両神山」より転載) 当の金剛院は修験寺院として本山派に所属し、両神山を行場として苦修練業する修験者たちの山入りの先達として、また宿坊としての役割を果たしてきた。
金剛院文書最古は1679年からで、過去帳では黒澤左京太景信(108才没)から始まり、現在は30代目の薄平家まで脈々と続いている。

■修験者のDNAからパワースポット探し

組子の襖の部屋で、薄平宮司さまとお話をした。
75才という年齢だが、その声には深みと重さがあり、朗々とした上に艶があり、存在感を与え『ただ物ではない』と感じた。本人は「宮司であって、修験者でない」と飄々と言ったが、祖先をみれば、修験に励んだ人もおり、そのDMAが滔々とその血に流れているような大きさを感じられた。
後に聞けば、薄平家の先祖は平家の流れで、500年前には天台密教の金剛院修験道場を開いたようで、苗字に平が付くのは、その証拠でもある。
後日の朝に、戸を大きく開き外の山々の景色の見える場所で、昔ながらの小さな木の机の前に座り、黙々と白いシメを作っている背中は、やはり大きかった。お正月に使用するシメで1000枚を作るという。他の神社では購入するそうだが、薄平宮司は、丁寧に一つ一つを折っていたその姿は、行とも言え、修験者の姿であり、まさに彼が動くパワースポットだと確信をした。
その部屋から金剛院に行けるので、一人で行った。廊下ではなく畳みが敷かれた部屋が、横並びに3つ続き、その上の二階が宿坊だった。毎年5月5日の大例祭前後には、200人ほどの人が参拝に見えると言う。現宮司の父君の時代までは、宿坊として信者の宿泊を受け入れていた。

金剛院に入ると、正面には古びてはいるが立派な神棚があり、その奥には大日如来さまがいると言う。宮司さまの父君がなくなった10年前の祭礼の時に、「御扉を開き、御鏡の裏のすだれのその奥から、煌々とまばゆい光が放たれ、目がくらみ、しばらく何も見えなくなってしまった」と、いつの間にか後ろに来ていた宮司さまが話された。
後日の1泊の訪問時、夕食後に宮司さまが直々に薪でお風呂を沸いて下さり、身体の芯まで温まったお蔭でぐっすりと眠れたその翌朝のことだった。心身すっきりした気分で5時に目が醒めると、神棚の前に座り瞑想をした。般若心経の読教と大日如来のマントラを唱えると、普段とは違う深い瞑想に入った。
瞑想時に見える中央で輝く光と色が、いつもの透明感のある藍でなく紫・金色となり、さらに稲妻のようなさく裂した光が手前から奥に駆けて走ったかと思うと、中央の光が普段の何十倍の輝きと大きさとなった。
やがて、目の前から奥に向かって筒のような通路ができ、まるで遠近法でみているようにその筒の奥へ奥へと吸い込まれていった。気づけば神棚と天とが光の柱でつながっており、宇宙と自分の一体感が生じ、いつしか奥まる平穏の中にいた。これが宮司さまの言う「大日如来さまがおられる」事だと実感し、この場所こそ時代に裏打ちされた存在感のあるパワースポットだと納得した。

金剛院の祭壇

神棚の左右には、第21代宮司である順明行者などの肖像画の掛け軸があり、順明氏の師である普寛行者の実筆で書かれた黒々とした力強い書と肖像画もあった。偉人には強いパワーがあるが、力強い真っ黒な字からそのパワーが溢れていた。
この普寛行者は、江戸時代の修験者で隣村・大滝村の出身の天台宗の僧だ。その普寛が常用していた木椀と汁茶碗の一対と、黄色の布に小さく包まれた普寛の骨片が、桐箱の収められてこの金剛院に残されている。

普寛が常用していた木椀と汁茶碗 金剛院から出発の浦島口コースは、金剛院の裏の両見山から三合落を経て、村の中央山系を尾根つたいに両神山に至るのだが、現在廃道のため本社まで行くことはできない。ただ山頂付近にはコースがあり、三笠山からの表参道を行くと両神御嶽神社本社に行ける。
その近くには高さ90センチの大天狗像があり、三笠山東方の海老弦ノ頭には青銅の大天狗像と小天狗像と烏天狗像もある。宮司さまが「この山には天狗がいる」と言われたので、天狗のことを思いながら家で瞑想すると、山道の途中にいきなり天狗が出て来て崖から突き落そうとした。
翌日聞いた宮司様の天狗の話は、「山では何人もの人が亡くなっている。天狗に呼ばれ、崖から落ちて死んでいる。10年程前に、友人を連れてキノコ採りに行った。三笠山の向こうの沢の付近で、友人がいきなり『この崖を降りて帰ろう』と言い出した。その崖は人間が降れるような坂ではなく、必ず滑落する崖だった。だが友人はそこを降りると言い張った。そこはダメだと何度も言い聞かせながら落ち着かせるのに15分もかかり、ようやく落ち着かせて下山できた。」と聞き、宮司様も同じような経験したのだと驚いた。
天狗は山の異人・山の神霊と言われるが、統一したイメージはなく、鬼やヤマンバ(山姥)などとともに精霊・鬼神の色彩も強く、この天狗を操れるのは修験者とされている。両神山の天狗は「オーイ、オーイ」と人を呼び、安易に返事をすると「連れていかれる」「命があぶない」という伝説が残っている。
神棚前で何気なく後ろを振り向くと、壁には武器が飾られていた。大なぎなた数本に大傘と大マサカリだった。

金剛院の天井画と壁に掛けられた大なぎなたと大傘と大マサカリ

大なぎなたは、大陸に渡り仏教を学んだ僧が中国の長柄武器である大刀を伝え、これに倣い日本で作られたもので、奈良時代から平安時代にかけて寺院の守護のために僧兵の武器として広く用いられ、これが薙刀の発祥と言われている。大鉞(まさかり)も長い柄と大きな刃を合わせた武器。堂々と長い柄をつけた武器をみていると、そこに弁慶のような僧兵の仁王立ちの姿が浮かび上がって来た。
白い頭巾をかぶり、全身白装束で木の大きな箱を背負い、右手に長いなぎなたを持っている姿は、風格があり、山で行をしながらいざというときには武器で戦う気魄を感じた。その気魄は境内のタラの木に流れていった。
山から風に乗って修験者の思いが境内に降り、芽を出しタラの木となり、そのタラの木から次々と芽を出している姿は、過去の多くの修験者の魂(パワー)のように感じられた。その魂をじっと見守るように左右に山イヌがいた。
秩父地方は古くから神の遣いとしてオオカミを信仰する習わしがあり、両神山のご眷属もヤマイヌ(二ホンオオカミ)だった。

■修験の滝でのパワースポット探し

金剛院から林道を歩いて8分の所に不動の滝がある。
その道を宮司さまと歩いて行くと、大小の尖った石が至るところにころがっていた。その石々は、日本カモシカが崖を降りる時に落とすそうだ。道の所々に、その石を除くために竹ほうきが逆さまに置かれているが、掃いても掃いても石は転がり落ちてくるとのことだった。
登って行く右崖からは湧き水が流れ落ちていた。手に取ると冷たくて美味しかった。近くの白石山(別名・毘沙門山)の麓から湧出する毘沙門水は、『平成の名水百選』にも選ばれている。
やがてオオルリの色合いのあるさえずりが聞こえて来た。オオルリは日本 に夏鳥 として渡来・繁殖し、高い木の上で朗らかにさえずり、姿も囀りも美しく、ゆっくりとピリーリー、ポィヒーリー、ピールリ、ピールリ、ジィ、ジィと鳴く。その美しい鳴き声を聞きながら歩いていると、気分まで華やかになり視線を右上の直角の崖に向けると、自然林が太陽の光を受けそれが透けて漏れ、爽やかなエネルギーの美と音のパワースポットのように感じられた。
前方の大岩となっている崖を宮司さまは指さし、「この大岩にカモシカが肩までしか乗せてない状態から、這い上がって行った。」と言った。野生動物は逞しいものだ。
到着した不動の滝は、林道の左側にあるのだが、入口早々の草は湿っていた。地面からも水が染み出ており、転がってる石にもすべて苔が生えていた。道から一歩入ると、ひんやりとした風と水しぶきのシャワーの中に、涼やかなで聖麗なエネルギーが漂い、別世界が広がっていた。
高さ3メートルもある大岩の岩壁中央を、水の力でV字に削り取り真下に流れ落ち、滝つぼを作っていた。岩壁には数本の太い蔦が、まるで樹の幹のように岩肌に絡まり、てっぺんまで伸びていた。その岩肌には、岩桐草が生え6月頃には紫の花を咲かせると言う。
岩桐草の合間をぬうようにしのぶ(シダ)が、葉を下に向け、滝の一滴のしずくがこぼれそうになっていた。 滝はしっとりした原生林に囲まれ、岩や大小の石にはすべて苔が生え、悠然と構えている姿はまさに秘境だった。現地の同行者二人とも口を揃えて、「始めて来た。こんな素晴らしい場所があるとは知らなかった」と言っていた。
滝から流れ落ち、すぐにぶつかる位置に大岩があり、その表面には雪の下が覆い、白い花を満開に咲かせていた。平地より寒いため、葉も花も小ぶりな雪の下の群生は可憐さの中に気品さえ浮かんでいた。

滝つぼ周りに群生する雪の下

滝を見上げながら左側の大岩てっぺんを指さし、宮司さまが、突然話された。
「あそこにヤマイヌが現れ、それも白く見えたんだよ。その時は鳥肌が立ち、寒くて寒くてブルブルと震え、その震えが15分間も止まらなかった。光線の加減でそう見えるのかと思って、左右、後ろを振り向いても光線である陽の光などは何もなかった」
滝のその上は自然林が優雅に枝を伸ばし、岩つつじのほそやかな枝と葉が風情を添え、白い靄がかかれば幽玄の世界を作り出し、両神山の守り主であるヤマイヌが現れても不思議ではなかった。実際、日向大谷コースを歩いている途中の山道で、白い幹の木々と陽光の反射で白くなっている地面の落葉のところでは、透明な白いヤマイヌの姿をみたような気になった。宮司さまが見たのも、その姿であろう。

宮司さまが白いヤマイヌを見たという滝つぼ上の大岩 この滝は何段にも見える。
宮司さまの誘導で水の流れに沿い、道ではない中を下流に降りて行った。やがて立ち止まった所から滝を見上げると、先程の滝は2番目でその上にまだ滝があったのだ。段差がいくつかあり、そこから見る滝は四段滝のようだった。段差幅や水量の違いで流れも雰囲気も変わり、一つ一つの滝に特徴を与えていた。
岩に上がり、下から四段の滝を見上げていると、まるで古代の原生林に迷い込んだようで、ヤマイヌやカモシカがすぐそこにいるように感じられたが、それは幻だけではなかった。

四段の滝 滝つぼまで戻り、石を渡り反対側の岩斜面に行った。足場を見つけながら一歩ずつ上ると、あちこちからも水が流れ落ちており、こちらの岩と石のすべてにも苔が生えていた。5メートル程上った所の、岩に座った。
そこから眺めた滝は更に絶景だった。若草色の葉が、上からと左右から覆いかぶさり、まるで緑のドームの中にいるようだった。左側には白い滝が水しぶきをあげながら落ちていき、落ちた水の流れのすぐ先には、雪の下の濃い緑の葉上に白い花が満開に咲き、前方奥には高い木が空に向けて伸び、流れのままに下降して行く水を見ていると、まるで自分が妖精になったような気分だった。以前、ある場所で滝行をした時には、本当に妖精が滝の周りを飛んでいた。小さな羽根を動かしながら、ホバリングしているような姿勢が見えたものだ。
雨が降り始めて来たが、覆っている葉たちが傘になり、雨しずくはほとんどかからなかった。その雨しぶきが白い靄を作ると、周囲の世界がますます幽玄の世界へと変わっていった。
何気なく振り返り崖の上をみると、そこには大岩に足をかけた日本カモシカが堂々と立っていた。角を天に向け、じっと見下ろしている姿に修験者の姿がオバーラップされ、強い意志と信念とパワーがそこから発散されているようだった。ゆっくりと下に降りた。
修験者の多くは、山籠りを中心に行をするのだが、入山する前には、身を清めるための水垢離(冷水を浴びて体のけがれを去り、清浄にすること)を川でしたり、滝に打たれたりする。この不動の滝でも、おそらく水垢離の禊をしたのであろう。
穏やかで静かな自然の中に、凛とした滝の音と水の冷たさが、身の穢れを落とし、修験者の決意と心を鎮める役目をしたように感じられた。まさに修験者の精神統一のパワースポットだ。

山中における修行日数の決まりはないが、ほとんどは奥宮で行なわれた。神がかりという行があり、行を積むことにより無我の境地に達し、神霊が身に乗り移って神の言葉を託宣し霊験を得ることで、山中修行は難行苦行を積んだ後に、人間を越えた験力(げんりき)が得られると言う。 昭和30年代頃に金剛院を訪れた石井長作という行者は、砂火事の術を会得した。その術は灯りを消し暗闇の床に砂を打ち付けると、パッと火が燃えるという不思議なものであったという。

滝の入り口には、不動滝の名のとおり不動明王の石像が安置されている。

滝の入り口に安置された不動明王

大日如来は修験道の信仰の核であり、宇宙本体そのものを示しており、宇宙の諸仏・諸尊をすべて統一する仏である。不動明王は、大日如来の化身とされ、煩悩を抱える最も救い難い衆生をも力ずくで救うために、忿怒の姿をしている。また、一面二臂で降魔の三鈷剣(魔を退散させると同時に人々の煩悩や因縁を断ち切る)と羂索(けんさく。悪を縛り上げ、また煩悩から抜け出せない人々を縛り吊り上げてでも救い出すための投げ縄のようなもの)を持っている。いかにも強い決意のもとで行場に入る、修験者と同じ心境を示している。

帰る前に、禊の気持ちで滝のそばまで行き、顔や手を洗った。しゃがんだその場から上を見上げると、若草色の葉の広がりがここにもあり、さらに水しぶきの色が思う存分に降り注ぎ、全身が浄化されたような感覚になると、『修験道の、山に登り、自然の中に身を置き、心身を鍛錬し、仏心を求める』というのが、自然と内から湧き起ってきた。
そして何気なく横に目をやると、岩壇の隙間から雪の下が生えており、その根を下に垂らし、空中に浮かせていた。その根の先には、生まれたばかりのような小さな小さな葉があり、その上には一粒の水滴がこんもりとあり、キラキラとダイヤモンドみたいに光っていた。
まるでたまゆら(玉響)のようだった。――たまゆらとは、ほんのちょっとの意味であり、また、高級な神様が姿を現しているとの説もある。
気づけば輝いているたまゆらが、あちらこちらにあって、数滴の小さな小さな光に見守れているようで、深い安堵が訪れた。
この一瞬の安らぎは、修験者も味わったであろうかと思うと自然に頭が垂れ、合掌をしていた。
 

第二編 (完)

 参考文献・資料:両神双書「両神山」、Wikipedia