第一編 古代神・日本武尊に出会う修験道を行く 

癒しのパワースポット

~1丁目から36丁目の石標に導かれて歩く道はパワースポットの宝庫だった~

 そのパワースポットの始まりは、朱色の小さな鳥居からだった。

小さな鳥居の向こうには、小鹿神社があった。西武秩父駅から車で45分の所だ。近在の村落を鎮め守る神社で、このような鎮守の森の神社には、時々奥から神が降りてくると言われる。

西の彼方には、これから登拝する両神山の鋭い岩峰が見えてくる。古神道では、森羅万象に命や神霊が宿るとされる。古来山は神様が住むところで、山そのものが神様と考えられていた。これら山岳信仰に密教などがくわわり、日本独特なものになっていった。その道を極めていくのが、修験道である。

修験道は、日本各地の霊山を修行の場として深山幽谷に入り、厳しい修行により超自然的な能力(験力という)を得ることで衆生の救済を目指している。修行して迷妄を払い、験徳を得、その徳を驗わす(あらわす)ことから修験者、または山に伏して修行する姿から山伏と呼ばれている。


丁目石、石碑等の分布(両神双書「両神山」より転載)

小鹿神社から観蔵院まで

西武秩父駅から、両神山の登山道である日向大谷口へ向かう道路が、二車線から一車線の山道へとなり、さらに十分程過ぎると、日向大谷口にある民宿の屋根が見えて来た。ただ一軒残っている両神山荘だ。

山荘の下に両神山荘の有料駐車場(500円/日)があり、その先の公衆トイレを過ぎると両神神社が営んでいた廃業した民宿があった。その民宿の前を通る坂道を下ると、両神神社の里宮があった。四畳半位のその場所に一歩踏み出すと、凛としたエネルギーが満たされていた。

正面には、純朴な神棚があり、神棚といっても単なる板ばりで、その木も古く、書かれている墨の字もぼやけていた。いかにも修験者が祀るような神棚で、『余計なものは一切なく、そして必要なものだけがある』。その雰囲気は、やはり修行の文字にピッタリだった。そこのエネルギーには、これから山に入る準備としての修験者の願いや気魄が立ち込めていた。そのエネルギーに触れると、自然と頭が下がる思いだった。

過去の修験者たちの何分の一でも、授かればと思いながら登山口へと進んで行くと、歩き始めてすぐに、左の山容に龍の背中が現れた。谷に尻尾を垂れ、頭を山頂の向こうに置き、背中だけを山に預けたその格好は、登山者に応援を送るのでもなく、見守るのでもなく、淡々と自分の力で進めというメッセージのように感じられた。

「西沢」という小沢を渡り、さらに少し行くと鳥居があった。右手に観蔵院行者堂があり、一丁目の石標もあるこの場所が一丁目だった。ここから清滝まで三六童子の名が刻まれた丁目石(1丁目は110m)や石像や石仏が次々と現れて、登山者を案内してくれる。

両神山の丁目石(三十六童子)(両神双書「両神山」より転載)

観蔵院行者堂にもエネルギーを感じられた。

修験道には、熊野を中心として活動した天台系グループの本山派と、金峯山を中心に活動した真言系グループの当山派がある。当山派修験寺院・観蔵院として活動していたが、明治時代の神仏分離で両神神社の名称となった。

観蔵堂には、行者の像が堂々と安置されていた。この行者は両神神社(旧観蔵院)の修験で、十数代も継承されている強者だ。行者の弟子たちが、その師を尊び仰ぐ清い心が、古びた像に温かみを伝えていた。

観蔵院から会所まで

観蔵堂を過ぎると、栃ノ木掘へとつづく。さらに進むと犬曳尾根が見えてきた。犬曳尾根の由来はこうだ。

日本武尊は東征における戦勝を両神山の神に報告し、その加護に感謝して山頂にお登りになった。

翌年、日本武尊の父親にあたる景行天皇がはるばる両神山を訪ねられ、山頂を目指そうとした。だが途中で濃霧が発生し、あたりはすっかり見えなくなり、景行天皇は進むも引くもままならなくなってしまった。

すると、どこからともなく白いヤマイヌが現れ、天皇を誘うようにして山道を登って行った。景行天皇は「両神様がつかわしたものに違いない」と思い、その後に従うことにした。

白いヤマイヌが登っていった山道は犬曳き尾根となった。

そんな説明を聞いていたせいか、少し進んだところで、白くて細い木々の林に出会った。地面の落ち葉が太陽の光で白く光って見えていた。

すると木々幹の白さと枯葉の白さが、コラボレーションとなり、そこに透明な白いヤマイヌが出現したような錯覚にとらわれた。

後程、唯一残っているヤマイヌ(二ホンオオカミ)の剥製された実像の写真を見せてもらった。そこにはサラブレットのような品格を備えた、ヤマイヌの姿があった。オオカミであろうはずなのに、イヌとオオカミの良い面だけが凝縮されたその姿は、まるでイヌ科動物の神の化身のようだった。天皇に付き添うに相応しい優美な姿態を、生きたまま見られないのが残念だ。

ヤマイヌ(二ホンオオカミ)の剥製

何だか得した気分で、進んで行くと凄いエネルギー場に出くわした。細い山道に突き出るような大岩があった。その大岩に負けじと、大樹がその岩を、太い根で両足のように囲って張っていた。樹齢350年の2本の杉の木が、堂々と天に向かってエネルギーを発していた。

大岩にはエネルギーが凝縮されているものだ。そのエネルギーさえ抱え込みながら、天に顔を向けている姿には脱帽だ。逞しい癒しが、そこにはあった。その大岩を回るとさらに大樹がもう一本、大岩に食らいついていた。

見事だった。3本の巨樹が、そこに大きなエネルギーの場を提供していた。

元気いっぱいになって、先を進むと、大きな石碑があった。12丁目と13丁目の中間のところだ。覚心霊神と覚明霊神が連なって収まっていた。

この両神は、行者の子弟関係であった。右端の覚明霊神は尾張の行者だった。木曾御嶽山を中興に開いた普寛が山頂付近で、修行中に死亡した覚明の遺骸を見つけ、手厚く葬った。

普寛は江戸時代の高僧で秩父市(旧大滝村)出身だが、木食行(もくじきぎょう*火食・肉食を避け、木の実・草のみを食べる修行)を実践し、即身成仏を目指した筋金入りの行者だった。

左端は覚明を師と仰ぐ高弟の覚心で、御嶽行者は死亡するとゆかりの霊山に霊神となり祀られる。行者として凄かったのか、覚明霊神像からエネルギーを感じた。

感動は更なる感動を与えるものだ。下方に水音を聞きながら登ってきたが、ようやくその清流に出会った。ここまで多少のアップダウンを繰り返し、登山口から40分ほどで着いた。ここは会所と呼ばれ、薄川と七滝沢が合流する場所であった。

当日は初冬で、すっかり落葉していたが、そのすがすがしさは新緑に負けないほどだった。下方から見ると、上流に向かってどんどん細く伸びている川の周りは、まるで渓流美の見本のようだった。

水に寄り添う大小の岩の至るところに、陽の光を受けながらしんなりした木姿が、アクセントのようにその景観を満たしていた。これ以上もなければ、これ以下もなしの完璧さに、清流には、魚(イワナ)さえ姿を現した。

薄川の清流に心を癒やされて

 もうここで引き返しても、大満足気分だった。水の清らかさと冷たさと、太陽の温もりと、そして風の遠慮がちな音に、細胞レベルで癒されていった。

紅葉もよし。新緑もよし。そして冬さえその良さを惜しみなく与えてくれる場所だった。

会所から清滝小屋、さらに続く奥社への道

すっかりくつろいだ気分の目の前に、急坂が待っていた。四つん這いで登り、薄川を何度か渡って行った。

山道を歩きながら横を見ると、大きな岩が寄り添うように二つあった。その間に大きな黒い穴がぽっかりとあった。熊の寝床と言えばそのようだが、行者の修行場とも言えた。

本当の行者の修行穴は、もっと山頂近くの険しいところに、沢山あるらしい。だが、見えて来た岩の間の黒い穴からは、流れるような気を感じた。行者がその穴の中に座り、黙々と瞑想している姿が浮かび上がってきた。一緒に横で瞑想すればどんな感じかと思うと、行者の鋭い目が見開いた。そんな甘くないという返事だった。

 

ニリンソウの花

 立岩堀を過ぎると、右手に杭岩が見えて来た。この付近はコブッキ坂で右手に日向丸、左手に日陰丸がそびえていた。

もうかなりの急坂となり、やがて八海山という新潟の有名な山と同名のお酒の名前にもなっている標識があった。ここには28丁目石と大頭羅神王の石像もあった。大頭羅神王は木曾の御嶽山の八海山の大頭羅坊という天狗の分身だといわれ、両神山の信仰は御嶽山の行者によって影響を受けたという説もある。
弘法の井戸

 

 

 

 

沢を渡って行く斜面には、春になるとニリンソウの群落があり、可愛い白い二輪が一面を覆い隠す。ますます本格的な急坂になっていった先には、弘法の井戸があった。竹筒のようなところから水が出ており、その水は冷たく水量は、ほんのわずかだった。季節によって水量が減少し、冬場の今は、川の水量も少なかった。その井戸の真上には、自然石の上に弘法大師が祀られていた。なぜかおっとりした風情と、明るい広葉樹に囲まれ、その場に安心感を与えていた。

観蔵院行者堂にもエネルギーを感じられた。

弘法大師像

 さらに登ると、次の水場にもなっている清滝小屋があった。会所から1時間30分のところだ。

清滝小屋はログハウス風の洒落た建物で、現在は避難小屋になっている。秩父郡小鹿野町が管理し、収容人員は80名だが管理人は不在だ。ここは探鳥のポイントで、ブッポウソウの声を聞くために宿泊する人も多い。ここでは不動明王が待ち受けていた。この像が両神山でもっとも古い石像だ。その古さが、この環境の厳しさを脈々と伝えていた。

不動明王は大日如来の使者である。宇宙そのものの大日如来が修験道の信仰の核であり、不動明王は修験者が目指した理想像だった。この道は36童子に導かれながら不動明王に迎えられ、そしてここで神と同化しようとした貴重な場だった。

清滝小屋の裏には清浄な滝があり、古くは「清滝の行場」と言われていた。清滝上には洞窟があり、多くの石像があった。ここまで辿り着いた多くの修験者の強いエネルギーが、四方八方に思い思いに広がっていた。

そして日本武尊像もあった。日本人にはなじみが深く、我々のヒーローのような感覚が気を和ませてくれる。自然石で彫った30㎝ほどの像は、姿かたちがもうわからないような状態だった。それが逆に神秘性を高めていた。日本武尊は古代日本の皇族だが、古事記では4世紀から7世紀ごろの数人のヤマトの英雄を、統合した架空の人物という説もある。ヒーローは謎が似合っているものだ。若い頃に登ったのだが、この先には、両神山神社本社・御嶽神社本社がある。清滝小屋から1時間のところだ。さらに両神山という霊山の神髄の、奥社へと続いている。

山頂にある奥社からは、狭いながらも360度のパノラマがあり、御巣鷹山を始め関東近郊の山々が、その雄姿を、翼のように天に広げていた。本社から30分のところだ。そこに至る道は、上級者用向きで、鎖場や急坂もあり、脚に自信がある人がチャンレジしていただきたい。

そして、山頂付近には地元出身の普寛霊神を中心とする文字碑三尊像が陣取っていた。江戸時代の高僧であった普寛は、民衆救済の大願を成就するため即身成仏を目指していた。その信念が、結んだ印から滔々と発せられる姿を想起した。山を下り帰宅途中の車窓から、地平線から登ったばかりの赤い月が、モナリザのごとく見送ってくれた。

 第一編 (完)

 参考文献・資料:両神双書「両神山」、Wikipedia